Southern Blog

  ~永遠の熱い胸騒ぎ~

~人生後半の戦い方~

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今日は「人生後半戦の戦い方」について自己見解を中心に構想も含め書いてみようと思います。こう書くと大げさですが単に「人生の後半」を「上手く」走る準備は必要だと考えています。これは「定年まじかだから」「既に隠居してるから」と言う事でもなく45歳を超えた辺りから薄らぼんやりと考えて行く方が良いのでしょうね。また、それぞれ感覚や価値観などで大きく異なると思いますが私の凡その感覚の中で記事にしたいと思います。桑田さんの「平和の街」でも聞きながら、斜め読みでもよいのでお付き合い頂ければ幸いです。^^


年齢を重ねれば「本当に必要なモノ」と言うのは限られてくるように思います。当然ながら若い頃に必要とされていた事やモノは年齢を追うに従い変化して行き、大いに整理して行く事が自分にとっては最善なのかもしれないと感じています。つまり「あればあったで無いよりは良いだろう」的な事・モノは思い切って整理するのも確実な充実に繋がるのではないかと最近思っています。「断捨離」と言えば簡単ですが「発想の転換」とでも言いましょうか。寄る年波に考え方や生活・行動も変化を加える必要があるのだろうとあらためて感じる次第です。今回は「友人」「金銭」「趣味」の3つを中心に書いてみようと思います。


【友 人】
年齢を追う毎に「友人」は必要だろうか?と考えます。若い頃は「友達の友達は皆友達」的な発想で「多ければ人気者」「スケジュールはいつも友人との交友で埋まっている」こういった発想もなきにしもあらず。しかし寄る年波に「必要な友人」は何人要れば良いのだろう?と自分に問う。私は確実に「少数の家族同等の友人」が居ればよいという答えである。
つまり「家族」が故、喧嘩もすれば恥じらいも見せる。何事が起きても気が付けば傍にいて「違和感のない関係」なのであろう。年齢を重ねるに伴い、友人は沢山居た所で毎日違う顔色とアレコレ行う元気などない。それぞれへの気遣いも耐えられない訳だ。若い頃の様に「友人の友人」と2人で飲むなどは若いが故の気遣いもなく「その場の充実感」を求めていたから振舞えたのだろうと振り返ります。年齢を追えば、心知れている友人数名(3人~5人程度)で年に何度か食事をして学生時代を思い出す程度で十分だ。もちろん「今日から私は友人を整理するので貴方様には外れて頂きます」などという横柄な態度・行動を起こすつもりはないが「整理する感覚」「一層の居心地の良い友人環境の構築」が求められるのではないかと思っている。或いは言わずとも年並に自然と整理されるのだろう。繰返しですが「友人」とは「身内であり他人」と思える程度の仲間が数人いれば十分だと考える次第です。

         

【金 銭】
金銭は有れば有るほど良いと思いがちですが「残りの人生、幾つまで何をするか?」なのかもしれませんね。極端に言えば、遊びでも仕事でも「お金がかかる」と言う事は「忙しい」にも匹敵し定年後・老年期の常套句「のんびりしたい」からは少し脱線する事にも繋がるように感じます。定年期を迎えれば自分の「生涯財産」などは明確に算出されている事になります。宝くじの特等でも当たれば別ですが一般的には人それぞれの親族環境や社会的立場・現実・実態で収入は浮き彫りに成ります。「絶対にやりたい事」でもあれば別ですが「取り合えず無いよりは有った方が良い」と言う感覚であれば現役時代も定年後も無理に貯込む必要もなく稼ぐ必要もない様に思う訳です。つまり「身の丈に合った生活」を送れば良いだけの事だと私は捉えています。おそらく大半のご同輩は同じ感覚かと察します。「老後はアレもコレもやりたい!」と思うが先立つものがない…とくれば「身の丈にあった贅沢」を楽しむしかない訳なのでしょう。そうです「しかない」のです。(笑)「何にも縛られずボーっと好きな様に日々を暮らしてみたい」「忙しくても良いからとにかく何かしていたい」つまりは「自分の老後はどう過ごしたいか」なのでしょうね。全てが万事「欲」を出せばキリが無いのでしょう^^自己の現実に合った金銭生活を自然体で過ごす事が良いのでしょうね^^「お金は人生も変えられるが、有るからと言って最善の方向に行くとは限らない」と言う事なのでしょう。要は自分次第でお金の価値観は変化すると言う事なのでしょうね^^

       


【趣 味】
これは意外にも結構悩ましい問題だと思います。10人いれば4人は「無趣味」だそうです。(笑) ただし6名も「コレ!」と言うものではなく「強いて言うならゴルフかなぁ」程度の様です。つまり銭金・収入につながるような趣味(技)など持ってる方は意外にも少ないようですね。凡そ趣味はあるが「突き詰める程の趣味は無いかなぁ…」と言った所でしょうか?「無いのなら見つければ良い」となりますがそう簡単には行きません。一般論で言えば絵心もないのに「油絵」など続く可能性も低く、やる気もないのに「料理」でもないでしょう(笑) 私の持論は「趣味の有無関係なく見つかった時・事が趣味に成ればよい」と捉えています。「日常や自分の好きな事の記事を書いたら読んでくれる人が数名いたので趣味はブログです」とか「掃除をしたらやたらと気分がスッキリしたので趣味は掃除で、近所の高齢者宅の庭の掃除をきっかけに小遣い銭が稼げるようになった…」こんな事でいいのだと思っています。そうは言っても「何もしないとボケそうで不安」ならば図書館に通いつめ「アルツハイマーについて突詰めてレポートを書いてみる」のも面白そうである。つまりは自然に任せて趣味は無くとも「無理なくルーティン化」出来るモノが生まれればそれが趣味だという逆転の発想で私は考えています。「さて!今日から始めるぞ!」ではなく「知らぬうちに日常の中心になってたなぁ」と言うのが理想だと感じています。^^

      

              
               ~のんびりしたい~


前項目で出しました「のんびりしたい」。この「のんびり」の考え方は様々と感じます。
定年後や老年期に「毎日何をすればよいか?」などで悩まれる方も多いようです。逆に「やる事・やりたい事」が明確で「その行動が のんびり なのです」と言う方はそれがベストだと思います。現役時代は「やる事」というより「やらなければいけない事」という捉え方の方が適切な表現かもしれません。従って自然と「やらなければいけない事」で日常は埋まっていたわけです。しかし定年・老年期は良くも悪くも「自由」であると言う事ですよね。そして個々の「自由」の先には「のんびりしたい」があるのでしょう。個々の本当の意味での「のんびりしたい」を具現化する為に、私の場合は好きな音楽関係や旅行・やりたい事はもちろん計画的に実行しますが日々、やる事が見当たらなければ、あえてルーティンなどを作らず・縛られず、その日、または近辺で感じた事や思いついた事をゆったり実行する生活スタイルが理想です。思い浮かばなければ特に何もしない。つまり自然体で行ければ良いだろうと考えています。気が付いたら趣味や行動含め「自分のペースが出来ていた」で良いと感じています。それが心身ともに「のんびりする」と言う事だと捉えています。随分と贅沢な考えだと自己認識もしますが同時に、その贅沢は長く働いてきた者の権利だとも捉えています。その際に一つだけ付加えるならば家族やパートナー・周囲への配慮は忘れてはいけない事なのでしょう。いくら自分が「今日は、やる事は無いから家にいる」「働いてきた者の権利だ!」などはご法度ですよね。つまり「周囲が重荷になる事」には注意をする事が最低条件かとも感じます。その点を大いに考慮すると共にバランスを取り、自己の中で権利(自由人パスポート)を主張し心身ともに「のんびりと自由」を謳歌する事を目標としています。

        


最後になりますが、人生の後半戦・第四コーナーを回った年代は良くも悪くも残すは直線あるのみだと思うのです。全速力で駆け抜けるもよし、ビリでもゆっくりゴールするもよし、それは誰にも指示・命令を受ける事もなく自分なりの走りをすればよいのだと感じています。逆に言えばだれも決めてはくれないので自ら納得の行く充実した道を決め、駆け抜けなければならないと言う事なのでしょう。そして少なからず満足した走りをするためには若い時の様な馬力は必要なく自分のペースで自分が出来る事を淡々と行い「少しだけの背伸びと少しだけの我慢」をして行き、それが満足という聖地に繋がるのではないかとも捉えます。


…と、言うは易しですが 理想形に行くのか否か?は別話としておきましょう (笑) 
                           アントニオ猪木さんの「道」で泡りたいと思います。^^


                    この道を行けばどうなるものか。 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 
                             踏み出せばその一足がみちとなり その一足が道となる 
                                              迷わず行けよ 行けばわかるさ
     
         桑田さんの「平和の街」。とても勇気づけられる楽曲・詩ですね^^


                                          本日も訪問ありがとうございました!