Southern Blog

  ~永遠の熱い胸騒ぎ~

~ちょっとイイ話 ⑤~

訪問ありがとうございます!


私が 今までに読んだ本や人から聞いた話の中で「いい話だなぁ」「ためになったなぁ」
と感じたものをかいつまみ紹介させて頂ければと思います。まぁ個人的に感じた事なので受取り方は様々だと思いますがご紹介させて下さい。ご存じの方は斜め読みで宜しくです^^


以前に読んだ事のある「地獄の食卓」「天国の食卓」の話です。耳タコの方もお付合を^^
仮に「死後」には「天国と地獄」があるとしましょう。地獄と天国で食卓を囲む時にどちらも大変素晴らしいご馳走が大きなテーブルに並ぶそうです。そこで大勢で食事をとるとの事。しかし地獄のメンバーは瘦せ細り不幸な様相になり辛そうです。相対し天国メンバーはふくよかに楽しそうで幸せそうな様が見受けられるとの事。


繰り返しですが地獄だからメザシ1本と言うわけではなく天国だから毎日ステーキでもない。どちらも栄養たっぷりでごちそうが並んでいるとしましょう。但し、これも同じ条件で「長い箸(1m?)」が各自に用意されている。さて何が違うのか?地獄のメンバーは長い箸で一生懸命たらふく食ってやろうと必死です。しかし食べ物は口に届かず食せません。天国のメンバーは対面の人に長い箸で食べさせ互いに満腹感を得られているという話です。
私は凡人で無宗教、仏教家ではありませんが「自利利他」と言う事でしょう。


人は生きて行く中で幼い頃から「助け合う事」「思いやりが大切」と呪文のように耳に擦り込まれます。「助け合う事」「思いやり」とは何なのか?綺麗事で言えば「親切」「人の身になる」など言葉ではいくらでも説明できるが、何かもう一つ説得力が無いように感じる。若者に「思いやりを持て!」と言っても、おそらく言葉では通じても「具体的に何をすればよいのか」「何が足りないのか」など分からないまま「分かりました。思いやりを持った行動をとります」と言うのでしょう。「地獄の食卓」と「天国の食卓」では、その盲点的な「自分勝手とは」「自己中心的とは」などに、触れているのだと感じました。同時に「地獄・天国互いのメンバーは生前も同じスタンスだったのだろう」という設定も見え隠れする訳です。地獄や天国と言うよりも「周囲と同調し譲合い・信頼を得ながら生きる事」が「思いやり」なのかもしれない。自分が出来ているかと言えば正直物足りなさを感じる。

      

例えば長蛇の渋滞での先端、車が「割り込み的」に合流して来た時に「譲るのは譲るが、気持ち良く譲れるか?」など些細な処だが自信は無い。(笑) 「小さいな」と自己嫌悪。おそらく「図々しい人」や「自己中心な人」に対する「理不尽性」が許せないのであろう。限界はあるにえよ、更に大きな気持で物事を捉えられる様にして行きたいものだ。



本日もありがとうございました。