Southern Blog

  ~永遠の熱い胸騒ぎ~

~麗しき昭和の頃~

訪問ありがとうございます!

本日は古き良き「昭和の時代」をテーマに記事を書いてみようと思います。


以前にもご紹介したように私の場合は寄る年波に特に少年期、「あの頃は良かった」と痛感する毎日です。ご同輩の皆様においては同じ様な感覚を持たれているものだろうと察します。今では考えられない様な事や今考えてみると楽しく幸せだったことなど思い出しつつ書いてみようと思います。ご同輩におかれては少年少女期に時計の針を戻し「いやはや、あんな時代もあったなぁ」「あの頃は悩みなど無かったなぁ」など良き思い出に浸り「Z世代近辺」の方も是非、「そんな時代だったんだぁ」など感じて頂ければ幸いです。


以前にも記事の中で「~昭和の師走・お正月~」と言う記事を書かせて頂きました。
私的には「昭和」を象徴する時代は1955年前後~1980年前後。この頃が所謂「昭和」の代表的時代ではないかと想像します。これは自分目線で恐縮ですが戦後から高度成長期が故の貧しい日本がまだ見ぬ世界へ具体的に足を踏み入れた時代なのではないかと?想像します。
雑で粗削り、しかし時に優しく温かい「人間らしい」時代だったように感じています。少々長くなりますが、お付き合い頂ければ幸いです。


【家庭環境】
第一次・第二次ベビーブームなどの影響も大いにあり数多くの子供達で市町村はにぎわっていましたね。当時の子供たちが成長して行く中で、中学校などのクラスも多い地域では15クラスくらいあった時代がありました。また、郊外には「団地」という名の集合住宅が建設されアリの巣に住むように皆同じ間取りの同じ広さの「団地」に多くの庶民が住んでいました。これもまた当時では「ハイカラ・ブーム」だったのかもしれません。友人宅(団地)に遊びに行くと狭い室内に家族5人~6人で住まれている家族もいました。そして当時の生活環境は皆、お世辞にも裕福な生活では無かったように記憶します。もちろん裕福な家庭環境の友人もいまして今にして思えば普通の建売・4LDKと言った家でしたが当時は2階建てで「自分の部屋」を持ち、何とベットまでもが置かれた部屋を見て「大豪邸」に感じたものでした。そして彼と妹は一般の子供では持っていない様なテレビCMでやっている玩具(野球盤・ママレンジ・JIジョー・リカちゃんハウス・任天堂マジックハンド・ミラクルトランプetc)などを持っていて友人と彼の家に通い詰めていた事を記憶します。おそらくこの頃の周囲8割の子供たちは「羨ましい組」だったのではないかと勝手に想像します (笑) 

             

【駄菓子屋】
そんな庶民の子供が通う「憩いの場」が「駄菓子屋」です。
何しろ5円・10円の駄菓子・くじ引きで満喫の時間を過ごすわけですから100円など持って行けば大富豪気分でした。100円玉を見せろ見せろの大騒ぎです。当時は駄菓子などの他に「巨人の星」「仮面ライダー」「人気アニメ」などの「生写真」があり確か?一回5円だったことを記憶します。また駄菓子屋の粋なおっちゃんは5円の物を買う際に10円を渡すと決まって「ハイ、500万円のお釣りね」というギャグで子供らを和ませた (笑) 今考えると おっちゃんの願望も入っていたのかもしれません。^^そして「もんじゃ焼き」を駄菓子屋の座敷で食べるシステムがありました。当時、駄菓子屋の店構えは店の奥は通常の住居に成っており、店の奥・6畳程の居間的・畳部屋で駄菓子屋の家族が食事をしている訳です。その横の掘りごたつ的な所で「具の殆どない もんじゃ焼き」を食べる訳です。(笑) 向こうのテーブルでは家族が「アジフライ」こちらは顧客として「30円のもんじゃ焼き」そんなシステムでした。それでも当時は それが普通でして「こんなにおいしいモノは無い」と心から感じていました。今では考えられないシステムですね。今でも百貨店などの企画などで当時の再現をしたりチェーン展開している企業も見かけますが、残念ながら、姿かたちは再現できても本当の駄菓子屋ではないですよね。^^


【運動会】
現在、運動会と言うと「ナイター」でダンスなど?とかプロジェクターを用いたゲーム感覚の物など「運動会」というより「発表イベント」的な学校も多くあると聞きます。「昭和の運動会」は、そんな甘っちょろいものではありませんでした。まず朝の6時頃に「開催」の狼煙?的な「花火」が打上げられていました。競技はと言うと「騎馬戦」「棒倒し」「人間ピラミット」などなど格闘技も顔負けの競技がめじろ押しでした。「ケガ人など出るにきまってるだろ!運動会なんだから!」の精神で行われていましたね。衛生面の対策もヘチマもなく「飴食い競争」では片栗粉で顔を真っ白にして飴を咥えゴールしたものです。そして午後の部最後に「紅白対抗リレー」で幕を閉じる訳ですが、ここで転んだりしたものなら大変です。後世まで「あいつのせいで白は負けた」的なレッテルが待っている訳ですね。(笑) そして最後の閉会式では校長先生のお決まりの言葉「家に帰るまでが運動会です」当時はよく意味が分かりませんでした。「帰宅路も点数に入るのか?」など友人と真剣に語った思い出もあります。(笑) 何にしても当時は「当り前」と思っていたことが現在では「犯罪」に近い事(競技)でもあり良くも悪くも、自分たちが経験してきた同じ年代の小中学生なのに現在の子供たちと感覚は大いに違うという七不思議でもあります。

             

【雷おやじ】
当時は近所に必ず「雷おやじ」が居ました。「雷」と言うくらいですから子供にとって「怖い」人な訳です。夏などはランニングシャツにステテコ姿にウチワを靡かせ町内を闊歩します。以前、桑田さんのレギュラーラジオ「やさしい夜遊び」にも同じ話題を出した所、桑田さんのコメントは「夏休みはオヤジのステテコ毎日着てましたよ。夏のユニフォームですよ」との回答でした(笑)まぁ、当時は当り前のスタイルだったのでしょう。(今でもいますけどね)そして道路でキャッチボールでもしようものなら「ゴォラァ!道路は人と車が通る所じゃ!広場でやらんかぁ!」と怒鳴る。また道路にロウセキで絵など書けばバケツで水を撒きロウセキの絵を一掃する(笑)私が少年期に野球をやる場所が無く市営の草野球広場で友人と野球をすることが多くあった。野っぱらでとても管理されてる様子は無いが一応市営。届が必要なのだろう。すると今で言えば定年を過ぎた頑固おやじが来て小学生の我々に「まぁたお前らかぁ!ここはダメだって言ってるだろ!」私たちは「逃げろー!」と一目散。と、その時、「おぃおぃ待て待て、オジサンに一球打たせてくれたらやっていいよ」「は?」なんて理不尽な事も日常茶飯事でした。(笑) 今は、こんなオッサンどころか友人と自転車に乗り外で遊んだり草野球をやったりする子供も激減との事。可哀そうな感じすらします。良い事も悪い事も「雷おやじ」は僕らに教えてくれたように思い返します。
     

     

【銭  湯】
「家庭環境」の話の中でも出ましたが当時の庶民はお世辞にも裕福な生活ではなく当時は「モダンスタイル」とまで言われた団地には風呂が無い所も多く、また有ったとしても行水程度しかできない拷問風呂。(笑) 一家は家の傍に必ずあった「銭湯」に出向きました。前段で書きました「雷おやじ」も必ず居て走ったり潜ったりする毎に怒鳴られていました(笑)
暖簾をくぐると木製に銀の鍵の下駄箱、藤の籠に服を入れ浴室に入ると桶の音が鳴り響き、プッシュ型で赤青の一定時間出る水栓で桶にお湯を汲み体を流す。湯上りには、やたら大きい文字盤の体重計に乗り、その後お決まりの よく冷えた「コーヒー牛乳」もしくは「パンピーオレンジ」を小さな池のある縁側に出て涼みながら飲む。こんな生活が当たり前だったんですね。当時を代表するヒット曲、南こうせつ率いる「かぐや姫」の「神田川」が象徴します「赤い手ぬぐいマフラーにして、2人で行った横丁の風呂屋」の世界です。また、有名なホームドラマ「時間ですよ」。このドラマが当時の昭和での生活、家庭環境をそのまま描いてくれているようにも思います。1968年には18.000軒前後の銭湯が営業していたそうですが一般家庭への「浴室設置」が進み2022年は1900軒前後とピークから大幅に減少している。こう言った「大衆の場」も残念ながら日本から減少し、家庭風呂でテレビを見ながら風呂に入る時代が訪れたわけです。「有れば有ったで当り前・無くして気付く宝かな」と言った所でしょう。


最後に成りますが、今思えば「昭和」とは「夢の中の出来事」だった様にも感じますね。
あの時代が、そのまま継続していたならそれはそれで「それなりに」暮らしていた事でしょう。スマホもパソコンもなく公衆電話で連絡を取り合い、駅の伝言板で待ち合わせを行うなどが当たり前の世の中だったのでしょうね。考えてみれば便利になった分だけ人間同士の接点も減り,子供らが膝に擦傷を作り土の匂いを嗅ぐ事も激減して来たのだと感じます。その結果が、昨今勃発している園児虐待や親が子を殺めるなど悲しい事件に繋がっている様にも感じてしまうのは私だけでしょうか? デジタルには「恩情・感情」は無いですもんね。


   「有れば有ったで当り前・無くして気付く宝かな」と言った所でしょう。
    


「麗しき昭和の頃」、また何か思いついたら書かさせて頂こうと思います。
その際はお付き合いのほどよろしくお願いいたします!^^



本日もお付き合いありがとうございました。