Southern Blog

  ~永遠の熱い胸騒ぎ~

~桑田佳祐 歌詞の世界 ⑯~

訪問ありがとうございます!

「桑田佳祐 歌詞の世界 ⑯」を書いてみようと思います。シリーズ的に書かさせて頂き既に16回に成ります。訪問頂き様々な御意見やコメントありがとうございます!
サザンオールスターズの桑田佳祐さんが創る楽曲の歌詞に的を当て、背景や事実と共に例の如く「個人的見解」重視で(笑)、歌詞の一説に触れてみたいと思い、始めたシリーズになります。ファンの方は「あらためて」、初見の方や桑田さんに興味の(全く)無い方も斜め読み程度にお付き合い頂ければと思います。少々気持ちが入り長文化?の傾向ですが…(笑) 是非飽きずに最後までお付き合い頂ければ幸いです^^書かさせて頂いた文章と共に実際の各楽曲をセットでお聴き頂けると、これまた幸いです。いつもありがとうございます^^ 
                   (ジャケ写真は全てサザンオールスターズ Official Siteより)


【恋するマンスリー・ディ】(SINGLE)1980/03
「いつもの ユウコさんじゃない こりゃユウコのmonthly day」


昨今オープン化されてきた所謂、女性の「マンスリー・ディ」だが、楽曲リリースの1980年当時は「社会・学校」でも男性はニヤニヤし?布を被せられていたイメージがある様に記憶する。しかし桑田さんは真っ直ぐに「レゲェ楽曲」に乗せ、世に出した。しかも対象はパートナー・原ボーである。またリリースと共に桑田さんは生理用品のCMに出演した。これもまた「桑田さんならでは…」だと私は感じています。 生理用品メーカーも桑田さんの「いやらしさ」を「爽やか」に捉えて「若い女性へのアプローチ」を意識したのではないかと捉えます。(CM中に「素顔で踊らせて」がホンノリ流れるのも粋だ)さて、楽曲の歌詞内容はどの様な想いがあるのか?言うまでもなくサザンメンバーである 原ボーも、ミュージシャンとして技術やセンスを求められる立場だ。総じて歩む中で音楽に対する「スランプ」を意味した歌詞内容にも聞こえる。つまり「いつもは、そんな所で迷わないじゃない!」「大丈夫だよ、スランプはいつまでもつづかないからさ!」と言った「励ましsong」にも映る。まぁ、無いとも言えない想像だ。ともあれ時代の背景もありながら当時「マンスリー・ディ」をズバッと楽曲にしたのは桑田さんくらいだろう。
     


     

【夜風のオン・ザ・ビーチ】(アルバム:ステレオ太陽族)1981/07
「まるでアナタは人魚のように 裸のままでSexyなlady 見つめられただけでダメなの」


楽曲の内容は「若者の暑い夏の海物語」とでも言いましょうか?やはり桑田さんは夏の海を知り尽くす湘南の人だなぁ…と感じさせる楽曲だ。「辻堂」「エボシ岩」なども頃合い良く流し込んでいる。若い時期の「夏休み」、大枠の若者たちは挙って海へと向かう。男女ともに「出会い」を求め出掛ける事も少なくないのだろう。学生となればなおの事だ。その心境と共に桑田さんの脳裏に残る「地元茅ヶ崎の夏・海」の状況・風景を回想し出来た作品に思える。また大人のイメージを滲ませる表現がある。楽曲途中に出てくる「慣れた感じのキス」をフランス語の「ベーゼ【baiser】」と表現して洒落感を醸しだしている所など流石だ。そして挙げさせて頂いた一説だ。「人魚の様な…裸の女性に見つめられたら」この表現は「彼女みたいな女性が目の前に現れれば、男子は万人やられてしまう」という表現にも捉える事が出来る。同時に前段で触れた「地元茅ヶ崎の夏・海」=「熱く眩しい夏」=「浜辺の出会い」=「一時の憧れ」的な方程式の元で構成された「夏を思う若者の代弁者」として地元で見られる風景を赤裸々に描いている様に受け取ります。


              

【チャコの海岸物語】(SINGLE)1982/01
「恋は南の島へ翔んだ 眩いばかりサンゴ礁」


勝手な想像だが、以前からこの楽曲は「夢の中の話」的なイメージがついて離れない。イントロが終わると「抱きしめたい」といった願望から入っている。そして「南の島へ翔ぶ」そして「珊瑚礁」と言った楽園的なイメージを醸し出している。また「裸で踊るジルバ」の表現は「自由」をも想像させる。楽曲自体は「恋の物語」などと、おしとやか風だが登場する著名人は桑田さんが共演したいであろう、憧れや理想の「夢の人々」だ。楽曲の中での「チャコ」とは1960年代に活躍した歌手「飯田久彦氏」。「悲しき街角」などが有名。「ミーコ」は、ご存知「人形の家」の「弘田三枝子さん」。どちらも桑田さんが大好きな昭和の歌手。特に「弘田三枝子さん」については「セクシーダイナマイトだよね」など語るほど惚れ込んでいる^^前段で「夢の中の話」と書かせて頂いたのはそんなチグハグなシチュエーションがありながら「あての無い恋の物語」に執着しているように感じたからだ。そして最後に「浜辺の天使」を見つける辺り、まさに「夢の中・夢心地」である言い回しに聞こえる。


                     

【流れる雲を追いかけて】(アルバム:NudeMan)1982/07
「アカシアの丘 異国の地よ 冷たい時間(とき)に耐えかねて つれぬ世の運命(さだめ)」


この楽曲は「中国残留孤児」がテーマに成っています。現在では「ピースとハイライト」など数多く社会問題にメスを入れる楽曲がありますが桑田さんの「社会問題 筆おろし楽曲」と言っても過言ではないでしょう。以前ご紹介しましたが、後にも同じテーマで「かしの樹の下で」も書きおろしている。自分が生まれた故郷と繫がる大空、何処ぞに流れるて行く雲は自国までも流れるのだろうか?など…切ない思いで雲を追い掛ける心境。不自由が無いとしても「中国残留孤児」の心境は複雑だ。自分に「生」がある間に生まれた土地をもう一度踏めるのだろうかなど沸々と考えてしまうのだろう。「異国の地」「冷たい時」「つれぬ世の運命」何もかも自分が決めた事ではない不条理な出来事でも消化して生きて行かなければならないと言う何とも切ない状況が浮かぶ。異国語を話す我が子を見ればなおの事だろう。

今の時代、考えられない事だが北朝鮮の拉致問題に関しても実際に理不尽極まりない出来事が一般人を襲っているのも事実。もし自分が・自分の家族が…と置き換えると想像もできない。国民に影響力が絶大な桑田さんには更に社会問題にメスを入れ続けて頂きたい心境だ。


                              

【涙のキッス】(アルバム:世に万葉の花が咲くなり)1992/09
「ふられたつもりで生きてゆくには  駄目になりそうなほど  悲しみが消えない」


「出会いがあれば別れもある」これは世の常ですね。別れには様々あり「恋愛による男女間」「友情の別れ」「職場での別れ」「死別」など様々。特に恋愛事情に置いて人は其々の別れの中で出来るだけ「やんわり」と、後ろめたくなく後悔なく別れを望むものなのでしょう。逆に「喧嘩別れ」だけは避けたいなどと考えるのではないでしょうか?挙げさせて頂いた「ふられたつもり」とは、ある種の「自虐」でも有る様に感じる。つまり「ふられた」のではなく身を引いた見方もありそうだ。相手を思いやると共に「緩やかな別れ」を求めたのでは無いかと感じるわけです。しかし相手や関係に名残があるほど割り切れない事は往々にある。故に駄目になりそうなほど  悲しみが消えないのではないだろうか?冷静に書いているが相手に対する思いの色が濃ければ濃いほど穏やかではない。しかし恋愛とは一人のコントロールではなく互いの目線が合わなければ成立しない厄介な代物であるのだろう。


              如何でしたでしょうか?
             「桑田佳祐 歌詞の世界 ⑯」
        また機会があればご紹介させて頂ければと思います。
           ご感想など頂けると嬉ししだいです^^

          

              本日もありがとうございました。