Southern Blog

  ~永遠の熱い胸騒ぎ~

~背中を追い掛けたいと思う人~

こんにちわ!

今日は少々、深めの話を書いてみようと思います。


生きていく中での「人間関係」では「背中を追い掛けたい人」の存在、または「追いかけてくれている人」の存在がとても大きいのだと思います。唐突ですが 私の思う「背中を追い掛けたい人」感を書かさせて頂こうと思います。


「背中を追い掛けたい人=一緒に何かを行いたい人・尊敬の意を持てる人」は「社会人(企業人)」に限らず友人・ご近所・個人商店・サークル仲間など無数にとらえる事が出来ます。比較的 企業の中などでは分かりやすいと思いますが全般的に考えると真摯に「背中を追い掛けたい人」に出会える可能性は少ないようにも感じます。私が「サザンオールスターズ 桑田佳祐」の音楽や感覚に同調できて尊敬をしている」これは本当の意味での「背中を追い掛けたい人」ではなく妄想や思い込みなどが肥大化して自分の中で「素敵な桑田佳祐」を作り上げているだけかもしれませんね。

ポップス歌手の耐えられない軽さ
ポップス歌手の耐えられない軽さ
文藝春秋

他のアーチストや著名人のファン心理も皆そんなもんだと思います。そりゃそうですよねTVやマスコミ・出版本・情報誌からの情報しかない訳ですからね。 表面上の事しかわからないし自己の「思い込み」などの中で真実は別として物語を作っているわけです。まぁ、それはそれで夢の中・理想などが交じり合い個人的な世界としては、よいことだと思います。


では、人が「背中を追い掛けたい人」とはどんな人なのでしょう? 考えてみました。
簡単に言うと 噓をつかない人、上下の隔たりの無い人、思いやりがある人、有言実行を行う人、などなどのきっかけがあり そんな人が 尊敬できる人、頼りがいがある人、安心感が持てる人=結果的に「背中を追い掛けたい人」になるのだろうと考えます。


しかし、そんなに完成された人はいるのだろうか?居たとしてもAさんとBさんの捉え方は異なり「万人が…」とは行かないのが実態?なのかもしれませんね。「嘘をつかない人」
大なれ小なり人は嘘はつきます。「嘘も方便」と言う諺があるくらいですもんね。「思いやりがある人」とはいえ全ての人に「思いやれるか?」と言えば難しいでしょう。理不尽な人に「思いやり」も何もありませんしね (笑) つまり大枠は前文要素を含んだ人が「尊敬」にもあたり個々に「背中を追い掛けたい人」に多く当てはまって行くのだろうと思います。


     


この内容が当て嵌まるかは別として、プロ野球の「トレード」話で、こんな話があります。


1986年、当時の中日の監督は あの名将「星野仙一」当時のホームランバッター、ロッテの「落合博満」をトレードで中日が獲得する際に中日4人・ロッテ1名(落合)での交渉が成立した。中日放出の中に甲子園で活躍した浪商の牛島(投手)がいた。牛島は星野監督の家に呼ばれ説得・説明を受け最後に小切手を出され「好きな数字を書け」と言われたそうです。そして上京の日には、星野監督自ら名古屋駅に出向き見送った話は有名である。


     
                               記事:スポニチアネックスより


見え方からすると これは、あくまでもパフォーマンスの話で「そんなに心を寄せる話ではない」という冷めた捉え方もありますね。しかし冗談でも「小切手に好きな数字を書け」と言うコメントは「お前を出したくないが背に腹は代えられない。理解しろ」であり、わざわざ監督自ら見送りに行く事は「それだけ気持ちを置いている」という表現に感じます。
「冷めたパフォーマンス論」もありますが、これがパフォーマンスだとしても実際に行動できる人が何人いるだろうか?と言う事でしょうね。思っても出来ないのが実態かもですね。
ちなみに以前、書かして頂いたように私は生粋のジャイアンツファンです(笑)


沢山のブログなどを読ませて頂くと「1人」と言う感覚の「孤独」などを目にもします。
冒頭に書きました「生きていく上で」と、言うのは少々大げさかもしれませんが少なくとも
自己の中に「背中を追い掛けたい人」が居るか居ないかは、目標や日常生活の充実化なども含めとても重要だと感じます。まぁ、無理に見つけようとしても中々そのような人の存在は見当たらないと思いますが、そんな時の自己の好きなアーチストや作家やアスリートによる「理想・妄想」でも良いのかもしれませんね^^



本日も訪問ありがとうございました。